ama-ama Life

甘い生活を目指しています。

生物としての完成度

ここ15年~20年くらい、年々そういう人が増えているなと思っている人たちがいます。どういう人たちかと言うと、生物として不出来な人とでも言いましょうか、完成度が低い人です。

人間には、目で見なくても、感じるという能力が備わっているはずです。少し離れた所から、誰かに見られていると、「見られているな」ということをなんとなく感じます。後ろに立たれると、後ろに人がいるなということをなんとなく感知します。野生のなごりとでも言いましょうか、人間には本来そういった感覚が備わっているはずです。

ところが、最近、そんな能力なんて全く持ち合わせていません、というような人々をよく見かけます。

たとえば、今日、地下鉄で隣に座っていた30歳くらいの男性は、まず座り方からしてだらしなく、電車のシートからずり落ちそうな格好でシートに沈み込んで座っていました。そして、その人が次の駅で降りようとして、膝の上に抱えていた横幅25~28cmくらいの黒いクラッチバッグの上についていたジッパーを開け閉めした時です。人が座っている幅を無視して腕を動かしてジッパーを開け閉めしたので、当然隣に座っている人間に腕がぶつかります。ぶつかっても、誤りもしません。駅に着いたので、自分の前に置いていた大きなキャリーバッグを引きずって降りていきました。私が驚いたのは、どうして自分の身幅で腕を動かして、バッグのジッパーの開け閉めが出来ないのか、ということです。身幅分があれば隣の人にぶつからずに、バッグのジッパーの開け閉めは出来るはずです。あぁ、完成度が低い生き物なのだなと感じました。そういう人の身のこなし方というのは、なんだかぎくしゃくとしていて、キャリーバッグを引きずって歩いていく姿も、決してスイスイという感じではなく、周りに居る他の人にぶつかりそうになっていました。

こういう人って、電車の中に多くて、女性でも若くてもおばさんでも、バッグから物を出したり入れたりするのに、ひじを立ててまるで隣の人に嫌がらせをしているようにぶつかります。そんな姿勢をとらなくても物の出し入れはできます。あの姿に遭遇すると、あぁ、完成度が低いのね、と感じます。若い女性で、バッチリ着飾って化粧している人でも、身のこなしがダメな人は、見ていてガッカリします。身のこなし、身体を上手に操れない人というのは、やはり生物として完成度が低いのだと思います。

もう一つの生物として完成度の低い人の例としては、距離の測れない人が増えているようで、これはガッカリどころか身の危険を伴います。

よくあるのが、駅のホームで次の電車を待つために人が並んでいるところをホームの最前列の隙間を歩いてくる人がいます。生物として完成度が高い人は、最前列の人とホームの先端の距離を計算して、どのように通れば安全かを考えなくても身体が勝手に判断して通ると思うのです。ところが、距離だの並んでいる人の安全だのはどうでもよくて、とにかく自分が通れればいいのだ、とばかりに平気でガンガン人にぶつかって進んでいく人がいます。持っている荷物をぶつけて前進して行く人も。荷物の大きさを自分の身体と合致させて計算するということがまったく出来ないのでしょう。人間としてどうだろう、とすら思います。まぁ、生物としての完成度が低いので、他人の迷惑など思いも及ばないのだろうと思います。

2つの例を出してみましたが、最近こんな人が増えているようで、ちょっと憂鬱です。外出するとストレスが溜まるのは、こういった人に遭遇してしまう機会が増えているからかもしれません。

政府広報のCMだったのか、「江戸しぐさ」というのを流していたことがありましたが、あれは大都市江戸で暮らしていく上で、いかに気持ちよくストレスをすくなく生きていくかという点からも有効なマナーだったと思います。そして、そういうことを特に意識せずにすっと出来るのが粋な大人というものなのです。

文明は進化して、「江戸しぐさ」の頃に比べると何でも便利になりました。しかし、マナーの点では後退しているように思われます。マナーというのは、結局、混み合っている都会でお互いにストレスを溜めないで生きていく知恵なのだと思います。

自分のことしか考えられない、自分さえよければよい、という人が増えているのかもしれません。しかし、それは大人としてはみっともないことです。幼稚園児じゃないんですから。どうせ、人間として生きていく、都会で生きていくのであれば、出来るだけ粋に生きたいものです。願わくば、さらに進化した完成度の高い生物として生きていきたいと思います。そして、年だけとっても生物として完成度の低い人たちが、少しでも減ることを望みます。