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田口ランディの「パピヨン」を読む

田口ランディの「パピヨン」を読んだ。
小説かと思って手に取ったのだが、エリザベス・キューブラー・ロスという死の研究で有名な精神科医を追うことで話は幕を開け、作者本人の父との死別という体験を通して、死について、生きるとは、家族とはを問うてくる。そして現代の日本の医療の姿に疑問を投げかける。
 
田口ランディは小説よりもコラムが好きで、その作品のほとんどを読んでいるのだけれど、田口ランディの強烈なキャラクターのおとうさんがついに亡くなったのだ。ずっと、読み続けているので、このお父さんの存在は、まるで知り合いの近所のおじさんのようだ。このお父さんがアルコール依存症でいかにひどい父親であったかは、作者のほかの作品でじっくりとお付き合いしたので、作者の心情もよくわかっているつもりで読んだ。
 
 
そうなのか。がんセンターはがん患者しか治療しないのか。知らなかった。そこで総合病院に転院の相談に行くと、内科と精神科と整形外科の連携医療はできない、と断られた。どれか一つの疾患しか扱えないと言うのだ。しかし、現実にはアル中で、がんで、骨折しており、それが父なのである。なんとかしてもらわなくては困るし、なんとかするのが医療だろうと思っていた。が、それは私の大きな勘違いであった。複数の疾病を抱えた患者を、医者は嫌うのである。自分の専門以外はわからないし、他の医師と協力して治療にあたるのはシステム上困難であるらしい。
 
 
このくだりを読んで、思わず失笑した。作者が体験しているのは2007年の話だ。
私も同じような体験をしたことがある。本当に、現代日本の医療はこういった感じだ。患者の側に寄り添ってくれていない。患者の家族の側にも居ない。患者はまるで物のように、ベルトコンベアーで流れていくようだ。ちょっとした融通で、だいぶ色々なことがスムーズに運ぶであろうに、なかなかそうしてくれない。
 
結局このお父さんはがんで亡くなる。それまでの作者の心理的葛藤とでも言うか、愛憎悲喜こもごもといった感じがよくでている。あんなに憎んでいた父親の病床に付き添う作者の心持はどんなであっただろうか。最後の日々には愛が凝縮されている。次のくだりでは、泣きました。
 
 
父は、意識の途切れる間際に私に言った。
「なあ、けい子。俺はよく生きたろう」
父の最後の言葉。
私は心から答えた。
「よく生きたよ。父さん」
 
 
エリザベス・キュープラー・ロスについては、私は何も知識がなかったものの、「死の受容の5段階」というのは聞いたことがあった。それを研究し、発表した精神科医だったのだ。このなかで蝶のイメージが繰り返し登場してくる。ロスにとっての蝶とは、田口ランディにとっての蝶とは、そして読者にとっての蝶とは ?
体という重いものを脱ぎ去った魂として蝶をイメージしているようだ。変身すること。死者が蝶になって飛んでくるという話も紹介されていて、これは私も経験があるので、なんだかすごく共感できる。
 
人が死ぬって、その人だけでなく、その周りの人も大変なことだ。
よく死ぬことはよく生きること。
でも、死がすべての終わりだとは考えたくない。肉体という重力に支配される重荷を脱いで、魂という軽やかな存在に変身するという考えは素敵だ。まさに、さなぎから孵化した蝶だ。
 イメージ 1
この作品は重い。重いけど、いつか身近な人の死を必ず体験するわけで、その時のために一読しておくのもよいだろう。そして、死の研究をしたエリザベス・キューブラー・ロスという精神科医について、あるいは死について、知るための一歩になるかもしれない。いずれは、誰でも自らの死を体験するのだから。その時を恐れない為にも、時には死について考えてみるのもいい。それは何より良く生きる為に必要なことだ。
 
 
 黄色い蝶のようなオンシジューム