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再び転院!元の病院へ出戻る

父が元の病院に出戻りました。

 

父は10月29日に伊勢崎市の病院に転院しました。その日は朝から結構雨が降っていて、この秋最低気温かと言うくらい寒い日でした。

父がその病院に転院したのは嚥下指導を受けられる病院だったからです。

父は10月8日に誤嚥性肺炎で本庄市にある病院に入院しました。通常、誤嚥性肺炎の治療は初めの1週間くらいは禁食で、飲み食い禁止です。水も飲ませてもらえません。熱が出たりします。だいたい1週間たつと熱も下がり、少しずつ食べ始めます。最初は重湯のようなお粥から、だんだんお米の粒が分かるようになります。1週間くらいでミキサー食か刻み食なら食べてもいいという感じになり、退院します。今回、父は当初の入院予定が22日間でした。今回、ミキサー食になっても、食べられず、この病院では首の所にチューブを通して栄養を入れる方式になります、と言われて、大急ぎで嚥下指導を受けられる病院への転院を依頼しました。転院先をアレンジしてもらっていた最中、10月22日か23日に脳梗塞になってしまいました。脳梗塞はそんなに酷くなく、落ち着きました。当初予定していた転院先に29日に転院しました。

 

ところが、行った先で今度は肺炎になってしまい連日高熱が出て死にそうに。転院して日がとても寒く、すぐに病室に入れればまだ良かったのでしょうが、検査を受けたりしていて、寒い思いをしたようで、やっとお部屋に落ち着いたら、ブルブル震えて止まらないのです。環境が変わったからかな、とか思っていたのですが、どうやらいつまでたっても寒いようで、先生に注意をしてもらったりして、なんとか少し落ち着いたのが1日目。その晩、看護師さんから具合が良くない旨の電話が入りました。

翌日、心配なので妹が見に行ったところ、具合が悪いなんてものじゃないほどになっていたとか。心拍数が上がってしまい、マラソンをやっているように息が荒いのに、なにも病棟では手を打ってくれてなかったそうです。生憎、担当の先生がお休みで、看護師にどうにかならないか尋ねたところ何も出来ないと断られたので、地域連携室の担当者に現状を訴えたところ、先日脳梗塞をやったばかりなので、脳外科の先生が来てくれて、診てくれたそうです。その先生のお見立てでは、脳梗塞は大丈夫なので、肺炎でしょう、との事で、お薬を点滴で入れたら、病状が回復したのだとか。その病院はシャントが入っているとMRIが使えず、CTで撮影したところ、古い機種の為あまり良く映らないそうで、「もし、何か一つでも脳に異常が認められれば3次救急の病院にでも転院できるのに」との事。その先生曰く、「以前くも膜下をやった後の回復期に入っていた病院に行けたら良かったのにね」との事。その病院は嚥下指導もあり、内科も脳外科も回復期のリハビリ病棟もあるので、確かに今の父にはピッタリなのですが、今いっぱいとの事で入れなかったのです。

 

転院した病院は縦割り行政のような病院で、ある課に入ると、別の課で診てもらいたい時は再入院の手続きを取らないといけないのだそうです。普通は、嚥下指導のリハビリで入ったとしても、肺炎になってしまったらまず肺炎を治して、落ち着いてから嚥下指導を受けると思うのです。ここは、内科に移るにも手続きがあり、「他の課に移るなり転院するなり好きにしろ」と病棟の看護師に妹は言われたそうです。

そんな状態なので、これは早く他へ移った方が良いと思い、転院する事に。転院3日目の31日に地域連携室の方に要望を伝えてもらいました。まず、この病院で肺炎を治してから嚥下の指導が受けられればベスト。それが出来ない場合は、脳外科の先生もおススメだった本庄総合病院へ、もし難しい場合は転院元の堀川病院が「何かあったら戻って来てもいいですよ」と言ってくれていたので堀川病院へ転院したい、と。

ここで、妹がフライングをして、連携室の担当者に朝一で電話した後、結果が待てずに堀川病院に直訴に行ってしまいました。で、堀川病院で受け入れてくれる事になりまして、本日転院です。

 

昨日、担当医師とのお話をした妹は、その医師と看護師から散々な事を言われたらしく、「普通こんなに症状の悪い人がこの病棟には来ないんですよ」との事。しかし、転院してから明らかに症状が悪化したわけで、あーだこーだ行っている間に処置をしてくれればいいのに、と思いました。「伊勢崎市民だの本庄総合だの言っているそうだが、3次救命の市民病院になんか受け入れてくれるわけがない」「こんなに症状の悪い人を受け入れる病院は無い」とまで、言っていたそうです。特に「伊勢崎市民病院」に対して何らかの感情があるようで、その名前を出した途端、担当医師が憤慨していたそうです。「車はこちらで出すので、何処へでも行けるものなら行ってみろ」みたいな感じだったと妹が語っていました。

 

8:30までに病院に来てくださいと言われていて、9:00には車が出発するとの事。かなり早く病院に着きまして、引越しの荷造りをしました。この日の父は酸素吸入の出来る装置を付けられていました。妹の話によると、入院2日目に脳外科の先生に診てもらってから、急遽酸素フォワードだの血圧だの心拍数だのが分かる機械が取り付けられたとの事。前の病院では、その装置は転院間際まで付けられていたので、転院初日はそれが無く、この病院は付けなくて良いのかと思っていましたが、単に物事を軽く見ていただけのようです。父がブルブル震えていたのはチアノーゼが出ていたからだそうです。

滞在日数が少ないので、あっという間に終了。お会計をして病棟に戻ろうとしたら、既に父はベッドごと1階に運ばれていて、父を搬送する車の方々も来ていました。私は民間の寝台車輸送の会社を頼んでくれたのかと思っていたのですが、いざ、車に乗る段になって、輸送のスタッフさん達の背中に書かれている文字に気づきました。なんと、「伊勢崎市消防署」。救急車を呼んでいたのでした。病院から看護師さんが一人付き添いに乗りました。酸素ボンベらしきものも積みまして、出発。25分くらいで、出戻り先の病院に到着。行きは民間の輸送で40分くらいでした。病院間の移送に救急車を呼ぶ程、父の容態は悪いという事でしょうか?そんなに悪いのに殆ど放っておいたのでしょうか?この病院のやり方は不思議で仕方ありません。単に、病棟の担当者が悪かったのか、病院の制度が悪いのか、謎です。結構大きな病院なのに。

 

出戻った病院では、「お帰りなさい」ムードで受け入れられました。父が検査を受けている間、入院手続きで、担当医師の説明がありました。前回、食べられない場合の処置は首からの経管栄養をするかどうか、だけだと思っていたら、今回、鼻からの経管栄養の項目もあり、「あるなら前回も言ってくれれば、大急ぎで転院先を探すことも無かったのに」と妹が残念がっていました。1週間もしないうちに出戻ったので、入院手続きは物凄くスムーズでした。

 

今回は状態が悪いので、個室に入りました。夕方、もう一度見に行った時には、酸素吸入器は既に外され、自分で息をしていました。お薬が効いたのか、環境が変わって慣れている場所に戻ったからか、お部屋が暖かかったからか、父の表情もリラックスしていました。「病院で、こんなに回復に差があるの?!」と、私たちはかなり驚いたのですが、とりあえず父の容態が回復に向かっているようで、安心して病院を出ました。

 

それにしても、1週間に2階の転院は草臥れました。10月24日の夜に父の面会に来て以来、帰省先の本庄市と住まいの蕨市を行ったり来たり。夜の遅い時間に来たり、早朝来たり帰ったり、とにかく私自身ヘロヘロです。そろそろ父に落ち着いて治って貰わないと、私が先に死んじゃいそうです。今回、出戻って、今度こそ良くなるのではと一縷の望みをかけるのでした。