ama-ama Life

甘い生活を目指しています。

「空也上人がいた」 ただ黙って寄り添う事のありがたさ

山田太一の「空也上人がいた」を読みました。
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あらすじ

私、中津草介27歳は特別擁護老人ホームのヘルパーだったが、車椅子に乗っていた老女を放り出してしまい、死なせてしまったことから辞職したばかり。市のケースワーカーである重光さん46歳が、個人宅でのヘルパーの仕事を紹介してくれた。その老人は吉崎さん81歳、車椅子であるが食べる事もトイレも身の回りのことも自分で出来ることは何でも自分でこなす単身生活者だった。
草介と吉崎さんの生活が始まり、初日・2日目と豪華な食事を吉崎さんは草介にご馳走してくれる。やがてブランドものの服や靴を買いそろえ、草介に与え、京都の六波羅蜜寺に行き空也上人の像を見てくるように依頼される。
 
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155ページほどの作品なので、昨日・今日と2度読んでしまいました。脚本家として高名な山田太一さんが、77歳で「最後になるかもしれない」小説として書かれた作品です。山田さんの作品らしく、読んでいて場面がイメージし易く、会話もドラマのようです。その会話の言葉の使い方が、やはり山田太一ドラマ的であるというか、山田太一という脚本家が好きな人にはとても好きな作品だろうなと思いました。
 
まず、私は空也上人という人物についての知識が無く、簡単に調べてから読み始めました。空也上人は一説には醍醐天皇のご落胤であるとされる平安時代の僧で、若い頃から修行者として諸国を巡り、南無阿弥陀仏を唱えながら社会事業を行い、貴賎を問わず多くの人を救済した民間における浄土教の先駆者だそうです。作品中で見に行く像は、口から「南無阿弥陀仏」と仏様が出てくる様をそのまま描いたもので、一度見ると忘れられない像だと思います。
 
なんでこの作品がこんなにも読者の胸を掻き乱し、鷲掴みにするのか ? それは下記の一文にぎゅっと詰っているように思います。
 
あんたがばあさんをほうり出したと聞いた時、これは裁きたくない、裁かせたくもない、ただ空也上人に会わせたいと思った。なにもかも承知で、しかし、ただ黙って、同じようにへこたれて歩いてくれる人に会わせたいと思った。
 
どうですか、この思い。そうか空也上人は一緒に歩いてくれる存在なのだ、全てを承知していながらつまらない慰めや元気付ける言葉などかけることなく、一緒に歩いてくれるのか、と思ったとき、胸をぎゅっと摑まれる思いがします。人間をしばらくやっていると、どうしようもない後悔ということが誰にでも一つや二つあるでしょう。そういう時、得てして周りの人は元気付ける言葉をかけてくれたり、慰めてくれようとしたり、「あなたのせいではない」というような言葉をかけてくれたりするものなのですが、それでは良心の問題は本当には何も解決していなくて、立ち直ったように見えてもずっと胸の中にそのことがくすぶり続けていくのです。そんな時、寄り添って一緒に歩いてくれる人の存在は何とありがたい事か ! しかも同じようにへこたれて歩いてくれるなんて !! 
 
空也上人とはいったい誰だったのか ? この物語の中では、意気消沈している草介の前に忽然と現れた吉崎さんも空也上人だったのではないか、と思います。
 
「痛々しい話を聞いたと思ったよ」と吉崎さんがいった。・・・・・
「その青年をいたわりたいと思った。ばあさんの死因がどうのとかいうんじゃない。・・・・・
感情だよ。我儘だ。ただその青年に楽をさせたいと思った。あんたが当惑するのも無理はない。すぐにでもうまいものを食わせてのんびりさせたかった」
 
全くの赤の他人、しかもそれまで会ったこともない青年にここまで同情し、何かしようとしてくれる人はそうそう居ないでしょう。なぜ、吉崎さんは赤の他人の草介にそこまでしようとしたのか ? ある年齢以上の人が感じる「人の運命に関わりたい」という思いからなのでしょう。何かのテレビ番組で、タレントのタモリさんの話が出ていて、彼より若手の芸人さんが「タモリさんは美味しいものを食べに連れて行ってくれて、自分では食べずに、若い連中が夢中で食べているのを嬉しそうに眺めている。そういう爺さんになりたい」と言っていたのが印象的でした。結局、そういうことなんでしょう。自分ではもう大して食べられなくても、自分が美味しいと思ってご馳走している料理を若い者ががつがつと息もつかずに食べているのが嬉しいという感覚を持つ事が年をとったということなのでしょう。自分はもう年を取ってしまって食べる事が出来ないが、自分が美味しいというものを食べてくれる、自分が認めているものを若い者が同じように認めている、という事が嬉しいのでしょう。
 
ヘルパーの草介、ケースワーカーの重光さん、介護される吉崎さん。主な登場人物は3人だけ。でも、その一人一人がお互いを思いやっている心の交流が、静かながら豊かです。重光さんに恋をする吉崎さん、草介に恋をする重光さん、そんな二人の人生の先輩たちの心の自由さに圧倒されながらも、一緒に生きることになる草介。社会の片隅で、決して脚光を浴びることなく地味に生きている普通の人々。それでもその心の中はなんとも自由です。人は、肉体的に老いても、本当に精神が自由な人の精神はいつまでも老いることがないのかもしれません。精神は成熟することはあっても、それは老いではありません。
 
今の時代、世代間の交流があまりない時代かもしれません。時代の移り変わりが速くて、誰にとっても辛い時代かもしれません。しかし、結構近くに空也上人はいるのかもしれません。ただ、気がつかないだけで。そして、いつでもただ黙って一緒に歩いてくれるのでしょう。現実にそういう人がいなくても、心の中にそういう人が居れば、ひとは前に進んでいけることでしょう。