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ドラマ「明日、ママがいない」 今後の展開に期待

昨日から放送開始のドラマ「明日、ママがいない」について、熊本の慈恵病院が「養護施設の子供たちや職員への誤解偏見を与え、人権侵害だ」として放送中止を申し入れると会見で明らかにしたというニュースに対して、日本テレビ側は、「このドラマでは子供たちの心根の純粋さや強さ、たくましさを前面に表し、子供たちの視点から『愛情とは何か』ということを描く趣旨のもと、子供たちを愛する思いも真摯に描いていきたいと思っております。是非、最後までごらん頂きたいと思います」と回答したというニュースがありました。

たまたま、昨日そのドラマを見ていて、同時刻、1週早くスタートしている裏番組は、芦田愛菜ちゃんにやられちゃうんだろうな、という出来だったと思います。ドラマとして見ていて、今回の病院の指摘しているような誤解や偏見などは感じられず、人権侵害だとも特に感じないで見ていました。大体、人権侵害というのであれば、親が自分の子供を放棄すること自体が、その子供の人権を既に侵害している行為であると思います。熊本の慈恵病院は赤ちゃんポストを設置している病院ということで、ヒロインが赤ちゃんポストに捨てられていた子供で、あだ名が「ポスト」である、という点がまず引っかかっているんだろうなと考えられますが、このドラマでは各子供たちは、皆自虐的なあだ名で呼ばれていて、本人は特にそれを否定もしておらず、受け入れて呼ばれているのみか、自分から「私、ポストだもんね」とか、「私はドンキ(鈍器)」と名乗ることで、過去を乗り越えて強く生きていこうとしているように見えました。第一、たかだかドラマで、作り物の世界のこと、慈恵病院が声を荒げるほどのことではないのではないでしょうか。

今後、どういう展開をしていくか今の段階では不明ですが、とにかく最後まで見てから声を上げても間に合うことです。慈恵病院は、自分で育てられない人が子供を預ける「赤ちゃんポスト」を実施していて、それが始まる時も、賛否両論あったと記憶しています。病院のスタンスとしては、救える命なら、「赤ちゃんポスト」であっても、救いたいという発想からスタートしたものだったはずです。

昨日、偶然にもNHKのドキュメンタリー番組で、施設で育つ子供が年々増えているというものをやっていて、現場の大変さを訴えていました。現場は当事者である子供も大変、関係している大人も大変なのだということが、よく描かれていました。欧米と違い、中々、他の家庭に養子縁組をして入るということが、日本では難しいのだそうです。そこには子供の将来を考えて、というより親の身勝手だけが透けて見えて、未熟な親の元に生まれてしまった子供の不幸がしのばれました。

「明日、ママがいない」というドラマは、こういう時代に出るべくして出てきた作品のように思います。赤ちゃんポストに捨てられていた「ポスト」、ピアノが得意な「ピア美」、家が貧しい「ポンビ」、母親が鈍器で付き合っていた男を殴りつかまった「ドンキ」と、自虐的なあだ名の少女たちを中心に、親に捨てられた子供たちとその周りの風景、関わっていく大人たちがどのように描かれていくのか、今後に期待できるドラマです。

このドラマを見ていて、ふと思ったのが、昔、大好きだったマンガで「はみだしっ子」というシリーズがあって、親に愛されず、自ら親を捨て、肩寄せあって生きていく4人の少年たちのお話とダブりました。このマンガ自体は、もう何十年も前の作品で、アメリカが舞台になっているのですが、今の日本は当時のアメリカの社会問題に追いついてしまったのかもしれません。もっとも作者は日本人ですが、マンガというのは不思議なもので、常に時代の先取りといいますか、時代を予見するような作品が出てくるものです。このマンガでも、初めのほうは自分たち4人だけで固まって、他の人々を信じることができなかった少年たちが、周りの大人に徐々に心を開いて変わっていきます。つらい現実を乗り越えて、愛するということを知り、体現していくわけですが、少年たちが成長していく過程で、どうして親は自分を愛せなかったのかという問題さえも、自ずと回答を出していきます。暗く重い作品ながら、そこには子供たちの生命力や強い信頼感、絆などが描かれ、自分を捨てた親をやがて乗り越えていくという力強い成長が描かれていたと記憶しています。

放送1回で、いろいろ言われてしまった「明日、ママがいない」ですが、今後どのような展開をしていくか、少女たちの健闘をじっくり最後まで見ていきたいと思います。