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甘い生活を目指しています。

小川洋子 作 「ことり」 幸福を感じる態度について考えさせられました

小川洋子の新作「ことり」を読みましたイメージ 1
 
あらすじ
独自のぽーぽー語のみを話すお兄さんと唯一お兄さんの言っていることが分かる7つ年下の小父さん。お兄さんは鳥の鳴き声を理解し、鳥と話せる能力がある。早くに両親を失い、ゲストハウスの管理人として働き、お兄さんに寄り添い支える小父さん。兄弟の生活は、鳥の声を聞き、ラジオに耳を傾け、実際には出かけない旅行の計画を立て、毎週お兄さんがぽーぽーと呼んでいるキャンディーを青空薬局に買いに行き、幼稚園の鳥小屋で鳥を見るだけの静かな日常生活の繰り返し。
やがて、お兄さんが52歳で亡くなり、その孤独を埋めるように小父さんはお兄さんが時々通っていた幼稚園の鳥小屋の掃除をボランティアで始める。幼稚園児たちに「小鳥の小父さん」と呼ばれるようになった小父さんのひっそりとした、生涯がつづられる。
 
 

読後、少し泣きました。この作者の作品を読むと、読後いつも少し泣きます。しみじみ、というか切ない。遠慮がちでひたむきで、誰からも省みられないような地味な存在の小父さんの一生のお話。だからと言って、小父さんが不幸せだったかというと、そういうわけでもないのです。多分、小父さんは小父さんの尺度の中で幸せだったと思います。
 
お兄さんが出かけられる境界線が幼稚園の鳥小屋の見える金網の所までであったことから、おのずと一緒に生活している小父さんの行動範囲も狭いものになっています。それはお兄さんが亡くなってからも、それほど広くはなりません。まるで見えない鳥籠の中に入っているような生活。その中を家から職場へ、幼稚園の鳥小屋へ、青空薬局へ、図書館へ、とぐるぐると飛び回っているよう。そこから出てしまうと危険が潜んでいるとでも言うようです。実際、この小説では、いつも行かない所、いつも会わない人と関わることで、身に危険が偲び寄ってくるわけですが、人間とは誰でもこの見えない境界線を持って生活しているように思えます。
 
静かな小父さんの生活を乱していくような事件が、虫箱を持つ老人と出会った頃に起こります。事件事態は解決しても、その後の影響が静かではあるものの悪意を持っておじさんの生活を根底から蝕んでいきます。おおっぴらでなく、あくまでもシンシンと、というところが骨に沁みるような怖さです。タイトルが「小鳥」ではなく「ことり」であることに愕然とさせられます。
 
小父さんのひっそりとした生活の中に強引に押し入ってくる存在も、平和を脅かす存在。作品の所々で悪意のあるなしは別にして、小父さんに近づいてくる人々がいますが、それはまるで鳥小屋の中に押し入ってくる猫や狸などの動物や、時に偶然気が向いて迷い込んできた蝶のようです。猫や狸には痛い思いをさせられ、ひらひらと迷い込んだ蝶とは心を通わせるひと時を味わい、それでも小父さんの見えない鳥籠は守られています。
 
小父さんの住んでいる世界は、自宅の朽ちて植物に埋もれ、今やバードテーブルになっている離れ、小父さんの管理するゲストハウスの素晴らしいバラ園、ボランティアで通う幼稚園の鳥小屋の近くにある木立や茂み、と緑いっぱいの描写が多く、それも鳥の住みかを連想させます。小父さんと老人が出会う河川敷の公園のベンチ、そこからは渡り鳥の姿が見えそうです。
 
小父さんの住んでいる見えない鳥籠の唯一の世話係のような存在が、青空薬局で、以前は青空商店と呼ばれていた小さな個人商店で、お兄さんは毎週ポーポーを買い、小父さんは湿布を買い求めます。その店は、小父さんと小父さんの世界の外側との接点のような役割を果たしていて、まるで鳥籠の小さな入り口のようです。あくまで外側ではあるものの、ぶっきらぼうではあっても優しい領域。「怪しい人だと思われないように、用心するのよ」「病院にいきなさい」。女店主はさりげなく小父さんを気遣ってくれます。ベタベタしていない遣り取りに、いつも洗濯に耐えたこざっぱりとした白衣を着た女店主の優しさが光ります。
 
小父さんの最晩年に怪我をしたメジロを世話したのは、先にあの世に行ったお兄さんのお迎えでしょうか。十姉妹が死んだ時に交わされた園長先生との会話が、小父さんの最後を予想させます。「朝は何の変わりもなかったんですよ」「弱みは見せないんです」。その前の章にははぐれてしまった渡り鳥の最後の様子が語られています。

どんなに衰弱していようとも、その表情には、お兄さんの愛した夜の鳥の賢さがあふれ出ている。
 
最後の夜、小父さんはメジロに語りかけています。「明日の朝、籠を出よう。空へ戻るんだ」それはメジロに言っていることなのに、まるで小父さん自身の運命を予言しているような言葉です。そして、「ひと眠りするよ。そうすればすぐ元気になる」と続きます。小父さんがまだ子供だった頃のエピソードが下記の様に早い時期に出てきます。
 
ポーポー語の中で小父さんが最も愛していたのは、おやすみ、だった。ああ、これは夜の小さなお別れを表しているのだなと分かる響きを持ち、どこか懐かしく、慈悲深く、小さな声でも闇の遠い一点にまで届いていった。お兄さんの「おやすみ」がいくつも重なり合うと、いつしか「さよなら」になるのだろうという予感がありながら、それでもやはり眠る時間になれば、また「おやすみ」を聞きたい気分になるものだった。
 
美しい表現ですね。「おやすみ」がいくつも重なり合うと、いつしか「さよなら」になる、というあたり、この作家独特の哲学というか、うっとりすると共に物悲しい気分になります。そして、小父さんはメジロに「おやすみ」をして、そのまま「さよなら」することになるのですが。
 
小父さんはレモンイエローの色をしたカナリアのような一生は送れなかったものの、見た目は地味でも美しい歌を一心に歌うメジロのような清らかな一生を真っ当したのだと思います。お兄さんがポーポーの包み紙で作った小鳥ブローチの最初の1羽は、空を飛んでいるレモンイエローの小鳥でした。レモンイエローの小鳥は、小父さんにとっては憧れなのかもしれません。レモンイエローの小鳥のように誇らしく空を舞いたい、という欲望。しかし、レモンイエローの「小鳥」ほどの小さな欲望です。小父さんの死が、安らかなものであったのが何よりも救いです。そして、世話をされていたメジロの羽に小父さんの魂が乗って、遺体の上を一回りしたあと、広い空に向かって上って行ったのでしょう。
 
全編を通じて、はっとさせられるほど美しいことばや一文だ沢山ちりばめられており、前で語られた事が後の伏線となり、幾重にも物語が重ねられている深さに、読む都度に心を揺さぶられます。さらっと、木綿のような手触りを連想させるような登場人物や物語世界なのですが、あまりにも美しく、涙が出てきます。
 
この作品は作品として楽しんでも十分満足できるのですが、別のことも考えてしまいました。それは、私たちの普段の生活の中で、普通の人々は自分で決めた領域/鳥籠の中を飛び回っているだけの一生です。そこから飛び出すには勇気が要り、中々出て行くことはできません。だからこそ空高く舞う事を夢見ているわけで、質素にさらっと生きている小父さんの姿は、私たち大多数の人間の代表選手なのでは、小父さんの地味な一生はまた、私たち大多数の一生の縮図なのかもしれません。ただ、私たちは小父さんのように与えられたことに文句も言わずに地道に取り組めないのではないかしら。小父さんの死が、むしろ幸福に満ちたものであったとしたら、そのように生きてきた人に与えられるご褒美というものです。私たちはあまりにも望みすぎ、現実を疎かにしすぎ、与えられている幸運に感謝せず、厄介ごとには文句を言いすぎるのです。小父さんのように小さな幸福に最大限の満足を得ることができず、傍から見たら厄介ごとであるお兄さんと生活することも、進んでお兄さんと一緒にいるのが嬉しく、楽しみを見出してしまう。小父さんは幸福を味わう才能に秀でている人だったのです。それはレモンイエローの棒つきキャンディーのような味なのかもしれません。舐めた後に舌がレモンイエローの色に染まってしまうような。
 
物語の最初に、初老の小父さんが遺体として発見されます。これをニュース的視点で見るなら、「老人の孤独死」ということになるのでしょう。身寄りの無い、寂しい一人暮らしの老人が、誰にも見取られずに亡くなった、というような。しかし、傍から見たら「身寄りの無い老人の孤独死」である小父さんの死は、決して不幸なものではないのです。小父さんは身寄りもなく、これといった友人もいなかつたものの、愛した鳥たちと一緒にいたし、メジロが空に帰る日を夢見て世話をしていたので、その日々は幸福なものだったのです。ちょっと見ただけでは、その人が幸福か不幸かは分からないものです。そして、孤独である、ということも決して不幸ということでもないのだと思います。
 
一読した後、何度でもページを繰ってしまうような作品です。幸福について、それを味わう態度について、考えさせてくれます。今、忙しくで心が無くなってしまいそうな人にこそ、読んで頂きたい一冊です。もちろん、心の深呼吸をしたい人、全てにお勧めします。