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甘い生活を目指しています。

モーム作 「月と6ペンス 」 自分を生きる事の難しさ

先日読んだ「お菓子とビール」が気に入り、引き続きウィリアム・サマセット・モームの「月と6ペンス」を読みました。これは通常、画家ゴーギャンをモデルにしたと言われている小説です。
 
あらすじ
新進作家の「私」は、今では誰もが「天才」とあがめるストリックランドという画家の軌跡を辿ることにする。知人の紹介で訪れたストリックランド夫人の晩餐会で、株式仲買人として良き夫、良き父親としてストリックランドと出会う。当時の彼は、特に印象に残るような面白みのある人間だと「私」には思えなかった。ある日、ストリックランドは全てを捨ててパリへ出奔する。ストリックランド夫人の依頼で、パリにストリックランドを探しに行った「私」は、何も無い貧しい部屋でキャンバスに向かうストリックランドを発見する。
数年後、パリに拠点を移した「私」は、友人のオランダ人画家ストルーブが、いまだ無名の画家であるストリックランドに「天才」を見て絶賛するのを知るが、「私」にはストリックランドの才能が分からない。ストルーブは病気で死にそうなストリックランドを自宅に引き取り介抱する。やがて、ストルーブの妻がストリックランドに愛情を持ち、ストルーブの元を去った挙句、ストリックランドに捨てられて自殺する。
ストリックランドはパリからマルセイユ、やがてタヒチへと流れて行く。
 
 
この小説は前半はたしかにストリックランドのモデルはゴーギャンなんだろうな、と思いながら読んでいました。株式仲買人であったのに画家に転向した点やタヒチに行った点、パリ時代の彼の絵が誰にも評価されず、むしろ下手だと思われていた点など、ゴーギャンのエピソードとかぶります。しかも外見の特徴もゴーギャンと似ています。しかし、途中でストリックランドが描いていた絵の描写が出てくると、ゴーギャンでもあるような、セザンヌでもあるような、あの時代に画壇を騒がせることになった画家全てを投入しているような印象で、ストリックランドという人物がモームの創作した人物であるように感じてきました。
 
作家の「私」は若い頃知っていたある株式仲買人の男が、没後「天才」に昇格したことで、生前の彼を知っていたことから、「私」の知らないストリックランドの軌跡を辿り、いかにして彼が「天才画家」になったのかを描き出そうと試みます。大きく分けて「私」の知っているイギリスからパリ時代のストリックランドを「私」の思い出で構成した前半と、ストリックランド没後、タヒチに立ち寄った「私」が、タヒチでのストリックランドを知っていた人々を訪ねて、彼の暮らしや生き方をインタビューして歩く後半に分かれています。
 
前半のクライマックスはストルーブの妻の自殺に続き、それまで人に決して絵を見せなかったストリックランドが「私」に絵を見せるシーンです。この前半は、ストリックランドという、突然悪魔のような「美」に魅入られてしまった男が、いかにしてそれまでの安寧な生活を捨て、「美」だけに信奉するかという軌跡が描かれますが、ストリックランドの人間としての不敵さが際立ちます。彼にとっては絵を描く事が信仰にも似た行為の為、それ以外のあらゆることはどうでもよく、それは世間で大騒ぎするような「愛」というものに対してもわずらわしいだけ。与えられれば受け取るけれど、自分からは決して与えるものではないのです。
 
前半に登場してくるストルーブという画家はあらゆる点でストリックランドと対照的な人物で、画家としては商業的には成功しているものの、芸術的視点からは下手な画家であり、自分でもそれをよく認識しています。この人は良心的で人の世話をせずにはいられない「愛」に生きる人なのですが、不幸な事に本物を見る目が備わっているのでストリックランドにバカにされても「彼は天才だから」と許しているんですね。この人もまた、「美」を信奉する一人ですが、その審美眼に自身の才能が追いついていない、いとも哀れな芸術家です。ストルーブのくだりを読んでいて、映画「アマデウス」のサリエリを思い出してしまいました。本物が分かるから、自分には与えられなかった才能を持った下卑た若者モーツァルトを徹底的に憎んだサリエリ。言い換えれば、モーツァルトの音楽を最も理解し愛した音楽家でした。ストルーブはサリエリと同じようでは有りながら、「愛」にあふれている人だったので、ひたすらストリックランドを助けていき、最後に手ひどく裏切られます。もっともストリックランドにしてみれば、助けてもらいたくもないし裏切った気もないのでしょうけれど。傍から見ると、ストリックランドは人否人に見えます。それは絵画がよく判らない「私」の目にもそう映ります。
 
ストリックランドが初めて「私」に絵を見せるシーンはどきどきします。しかし、「私」には、その絵の良し悪しが分からない、ストルーブが言うように、その絵に「天才」の筆跡を見出す事が出来ないのです。「私」としたら、ストルーブがなぜそうもストリックランドに肩入れするのか、彼が言う「天才」の片鱗とは何なのか分からないので、ストルーブのこともストリックランドのこともよく判らない状態なのでと思います。今までの表現方法を明らかに逸脱した新しい手法を初めて目にした人は戸惑いを隠せないでしょう。そしてそれが普通でしょうが、旧世界からの逸脱、旧時代からの逸脱というものを求めている画家としては、それはあまりにも当たり前の表現方法だったのだと思います。彼はただ、魂のままに描いているだけ、だったのだと思います。どんな絵だったのか、想像をたくましくするシーンです。やはり、ゴーギャンセザンヌの絵を想像してしまいました。
 
後半は、一転、タヒチを訪れた「私」が生前のストリックランドを知っていた人をインタビューする形式になります。そして、タヒチや南の島に生きる魅力的な人たちの話が語られます。私はこの後半が素晴らしく、感動して泣きました。人生の意味とはいったい何なのか、どう生きれば幸せなのかという人類の恒常的な疑問が呈され、その回答を登場人物の語るそれぞれの人生の中に垣間見ることができるのです。ブランチが自殺した後、「私」にストリックランドが言います。「人生に価値なんかない」と。でも果たしてそうなのか ? 誰の人生にも価値はないのか ? ストリックランドには死すらもどうでもいいことだったとしても、彼が関わった人々は彼と関わる事で何か価値を見出しているのではないのか ? ゴーギャンの巨大な絵で「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という作品があるのですが、なんだかその絵を意識したような構成に、上手く出来た小説だなと思います。
 
この後半は、ストリックランドのタヒチでの生活が描かれていくわけですが、タヒチでの生活がまるで西洋世界の描く楽園のようで興味深く、西洋世界が否定したストリックランドの特異性すらここでは受け入れられている点で、まさに楽園のような場所なのです。ただ、住んでいる環境が楽園であったとしても、ストリックランドの魂は戦っていて、決して休まる事はなかったはずです。生活環境の安楽さが幾分か彼の精神を楽にしたのか、病を押して、ついには納得のいく1枚を描き上げて、それは巨大な壁画なのですが、開放されたかのように亡くなっていくのです。その家の壁に描いた絵を燃やすように遺言を残したことで、タヒチの妻が家に火を放ち全て燃やし尽くしてしまうというシーンも強烈です。ストリックランドがらい病にかかっていたから、家を燃やす必要があったのですが、それよりもむしろ彼の画業の最高到達点である壁画を誰にも見せない為に燃やせといったように思います。彼は商業的に成功する為に絵を描いていたわけではなく、それは祈りにも似た行為であったはずです。異国の地で納得のいく絵が描けたことで、魂の浄化は済んでいるのでしょう。だから、もうその絵を残しておく必要がないので燃やしてしまえということでしょう。タヒチの濃い色彩の中、燃える小屋は想像するだけでも強烈な絵になります。ストリックランドという画家の激しい生き方そのものの鮮やかな色合いが目に見えるようです。
 
この小説は、ここで終わらず、どんなに個人が抗おうと時代は待ってはくれず、ストリックランドは死後「天才」となり商業的に成功していくわけですが、そこまで書ききっています。タヒチ人の妻アタが献身的で放っておいてくれる楽園の女なのに対して、イギリスの妻はあくまでも体裁を繕い商業主義的なのが可笑しいのですが、世間的にはよくありそうな構図です。
 
タヒチや南の島も、楽園というわけではないと思うのですが、当時の西洋の男性の中での憧れだったのでしょう。これが、日本人や中国人の視点で語られると、全く別のお話になりそうです。一枚ずつ身に張り付いた重たいものをかなぐり捨てるように、イギリスからパリへ、マルセイユへ、そしてタヒチへと移動していくストリックランド。その場所の色彩も、無色に近い寒いイギリスから、明るいパリ、陽光あふれるマルセイユ、熱帯のタヒチへとどんどん鮮やかになって行きます。古い価値観や慣習を脱ぎ捨てた先にあったものは光と開放だったのか、興味深いところです。
 
タイトルの「月と6ペンス」というのは「希望」と「現実」の事だそうです。若者は、常に月を夢見ながら足元の6ペンスには気が付かない、という事だそうです。ストリックランドが見ていた「月」とは何だったのか、「6ペンス」を振り払って前進した精神力はどこから湧いてきたのか、彼は何を求めていたのか、興味が尽きない小説です。答えは読者それぞれにまかされているようです。
 
ストリックランドの背中を追いながら、自分を生きることの難しさをかみしめる思いを抱きました。ストリックランドはズンズン進んでいくものの、私たちは中々そうはいきません。「人生に価値はない」とストリックランドは言うけれど、そこまでの潔さを持ち得ない私は、人生になんとか価値を見出す努力をしたいと思います。
 
読後、ゴーギャンセザンヌの絵が見たくなりました。タヒチに行ってみたくなりました。なにより、タヒチの強い陽光を浴び、むせ返るような緑の中に身を浸してみたくなりました。日本人でしかも女性である私ですら、1世紀も前の西洋の男性のあこがれの楽園を見てみたいと思いました。